『血と暴力の国』(コーマック・マッカーシー)

外国文学はもとより、日本文学ですらロクに読んでいない私がなぜこの本を読もうと思ったかと言えば、コーエン兄弟が監督した『ノーカントリー』を観たからだ。この『ノーカントリー』は本作が原作なんである。普段は別に原作小説を読んだりしないんだが、これは読んでみようかなと思った。んー、まあ映画を観てもよく分からない部分があったということもできるが。


あとは、私が信頼する書き手の豊崎由美と山形浩生が小説に対して好意的な評を書いて
いたから。


どういうお話かはYoutubeで予告でも調べてもらえれば分かりますが、テキサスの田舎で貧乏暮らしをしているベトナム帰還兵の退役軍人があることから大金を手にして、逃げる。それはヤバい金なので、恐い人が刺客を送り、金を回収しようとする・・・というものです。


この刺客が狂った奴で、とにかく人を殺しまくる。


Amazonとかの書評を見ると、そのシュガー(Chigurhと綴る)という狂人を、「絶対悪」だとか「純粋悪」が擬人化されたもの、みたいな捉え方が多いみたい。そうだろうなあとも思えるしそうなのかなあとも思える。


この小説のもう一つの大きな要素として、運命が挙げられる。かねてから私はこの運命って言葉とその使われ方に疑問を抱いていた。例えばこんな。「運命は自分次第で変えられる。」バカなことを言うんじゃない。試しに辞書で意味を調べてみなさい。


運命;①超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。②今後の成り行き。将来。普通人が「運命は自分で変えられる」と言う時それは①の意味意味合いで使われると私は思う。現に、①の用法は、「これも―とあきらめる」、②の用法は、「主人公の―やいかに」となっている。


で、何が言いたいのか。運命は人の力では変えることはできないってことです。「超自然的な力に支配されて」るんだもん、人間が変えることできるわけない。運命は変えられないが、その存在を否定することはできる。有り体に言えば、運命なんてない。全て自分の力次第で何とでもなる。


運命を否定するのは簡単だが、実際に運命としか言いようがない人生を送るというか、送らざるを得ない人はいる。すぐに考えつくのは、例えば食料もない、普通の医療も受けられないところに生まれた子どもだ。日本にそんな人はそうはいないだろうというならば、親から虐待を受けている子どもはどうだ。その子が何かしただろうか?そして「頑張ったとして」そこから簡単に抜け出せるだろうか?


仏教的な見方(って合ってるのか知らんが)をすれば、そういう子どもは前世からのカルマで酷い人生を歩むのだ、ということになるんだろうが、今のご時世他人からそんなこと言われて「あ、そうか。前世での行いが悪かったからか。そりゃ仕方ねえ」と納得できる人がどれほどいるんだろう。


多くの他者から見て又は自らが不遇だという全ての人をひっくるめてそれが運命だ、というのは大雑把すぎる感もあるが、個人的には運命論的な考えを割とありだと思ってはいる。


長くなるのでアレですけど、「あなたが努力したから運命が拓けた」というのは、私にすればおかしい。運命は拓けない。もし良い結果がもたらされたのなら、そこで「努力すること」すら決まっていたのだ。


ようやく小説の話に戻るが、(現世の中での)因果の都合ではどう考えても納得のいかない結末を迎える人が作中にはいて、そして、架空の世界同様にこの現実世界にもそういう人がいるんじゃなかろうかと。


まあ要するに、全てのことに正当な理由があるとは限らないわけです。起きていいことばかりが起きる人生や世界なんてないわけで。宇宙がいくつあるかは分かりませんが、少なくともこの宇宙では起きることは予め決まっているし、この宇宙で起きなかったことが起きる宇宙もここで起きなかったことが起きるということを含めてその結末は予め決まっているんじゃないのかと思うのです。


と、書くと非常にニヒリスティックな考えだなあ。全てが決まっているのだとしたら、自発的に世の中をいいものにしよう、なんて考えてもしょうがないわけか。いや、そもそも運命で予め決まっているのだとすれば、皆がいいものにしようと考えないことも決まっているってことか。何だこのマトリョーシカのような事態は。

2011/9/1(U)

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